もう過ぎ去った話題であるが、2021年7月に行われた東京オリンピック開会式があまりにも悲惨だったので忘備録としてまとめておく。ほかの人はどう感じているか知らないが文化を冒涜したことに対する怒り、そしてそれについて社会があまりに鈍感になっていることに対する絶望感。僕は一生忘れないと思う。

・・・オリンピック開会式の内容について、いろんな方が解説しているがここで細かくは触れないが怒っている理由を書いていこうと思う。思えば始まる前から小山田氏の起用をめぐる問題など不祥事だらけであったがそもそも何が悪いのか?という点についてあまり語られることがないので自分なりの考えを書こうと思う。

僕は「公共の場」すなわち、税金も投入され国際的な注目が集まるオリンピックの開会式という場にふさわしくない人選、透明性がないやり方に納得ができないし怒っている。サブカルチャーの一種であるゲーム音楽、クラブDJ、、、なぜこういった人を出すのか?まったくもって意味が分からないし理解もできない。勘違いしてほしくないのだが僕はゲームもクラブミュージックも好きなのだ。むしろサブカルチャーと言われるものが好きだからこそ公共の場に出てくる鈍感さに怒っている。

ここでは僕が怒っている理由を語ろう。まず「文化」と「公共性」という言葉を調べて欲しい。ネット辞書から引用するが余裕がある人は国語辞典で調べてみるといいだろう。

weblio辞書:文化より

文化とは、複数名により構成される社会の中で共有される考え方や価値基準の体系のことである。簡単にいうと、ある集団が持つ固有の様式ことである。文化の語は、英語の culture の訳語として明治時代頃から使用された言葉であり、英語の culture には、「文化」の他に「訓練」、「養殖」、「栽培」という意味もある。その意味の多様さから、文化という言葉はその文脈により様々に定義される。

英語の culture の語源はラテン語の colore である。colore は、「耕す」、「住む」、「崇拝する」等の意味を持っていた。「耕す」とは、植物の自然な生育環境を改変し、人間の生活に役立つようにすることであると言える。つまり、culture とは、自然な状態にあるものを人間の思考や生活に従わせることである。このことから、culture の対立概念として、「自然」という言葉を想定することができる。

文化とは、人間により創造されたもの、人工物であり、その社会において後天的に学ぶべきもの全般のことであると言える。そのような意味で、文化の種類としては言語、宗教、音楽、料理、絵画、哲学、文学、ファッション、法律などが挙げられる。そのような事情から、文化という言葉からは、文学や音楽といった高度な営みを連想することが多く、例えばアニメーションや漫画等の大衆的な文化は「サブカルチャー」と呼ぶ。

 

weblio辞書:公共性より

広く社会一般の利害にかかわる性質。また、その度合い。例:「公共性の高い鉄道事業」

 

公共性については立命館大学の村上弘氏の社会学的観点から見た論文を基にもう少し深く考えてみたい。公共性には3つの側面があるという。

1,多くの市民や社会集団の共通利益(の一部)
2,市民や社会集団の異なる個別利益(私益)の総和(の一部)
3,国家や地方自治体等の「全体」の利益(の一部)

・・・さあ本題に戻ろう。これだけでもう説明は充分である気はするが、オリンピックの開会式というのは税金が投入された公共性の高い場所である。これには異論がないだろう。そして日本の文化を世界に発信しようというときに考えてほしいことがある。ゲーム音楽やクラブミュージックに公共性があるのだろうか?おじいちゃんやおばあちゃん、小さい子供はドラクエの曲に対して納得するだろうか?僕はしないと思う。ゲーム音楽などおじいちゃんおばあちゃんにとっては関係ないからだ。仮に日本発の文化だから、というならば、なぜビジュアル系音楽や特撮の音楽ではだめなのか?おじいちゃんおばあちゃんが好きな演歌や民謡ではだめなのか?説明がつかない。ファンの数の問題であるならば多様性やダイバーシティに配慮していないのではないだろうか?ここが重要で、つまりサブカルチャーというものはしょせんは娯楽であり、それ以上でも以下でもない。だから最初から公共の場に持ち込むのは説明がつかないし、公共性に耐えられる力があるわけがない。

こういう場所で使用する理由が一番説明しやすいのは「伝統文化」ではないだろうか。長い時間かけて社会に残っている伝統文化は歌舞伎かもしれないし和太鼓かもしれない。歌舞伎だって昔はサブカルチャーであったのかもしれないが成立した時間が違う。時間が違うということは替えが効かない。「この日本で300年以上残っている文化」と説明されたらおじいちゃんやおばあちゃん、子供までみんなが関係することになる。つまりゲームミュージックだってあと300年経過して残っていたら公共性に耐える可能性はあるであろう。替えが効かないものを国の文化として認識するからこそ、その国特有の財産にもなるし観光資源にもなる。ポップカルチャー・サブカルチャーでは「誰かの利益」にしかならない。「公共性のある文化」というものを考えたとき、それだけではだめなのだ。マーケティングの理屈で公共性が埋まるわけがないしこのようなことをしていては日本の文化は衰退する。サブカルチャーも長い目で見れば衰退するし、「オリンピックの場でゲーム音楽や私の音楽がかかって光栄」などと言ってはいけない。公共を軽く見るのもいい加減にしてもらいたい。正当な手続きを経て選ばれたものでない限りはインチキだし図々しいのだ。クリエイティブなことに関わっていながらそのような発想に至るのはあまりにも鈍感すぎるのではないだろうか?その鈍感さは後々、自分で自分の首を絞めることになるであろう。

公共性のある伝統文化というものは子どもにとっては、いや多くの人にとってもつまらないものであるかもしれない。例えば、雅楽の演奏は子どもが見ても面白くないかもしれない。しかし必要なものであり大事なもの。そもそもそういうものなのだ。だからこそ本音を言えるような娯楽、すなわちサブカルチャーがその溝を埋めている。本来の構図や役割はそのようなものでないだろうか。サブカルチャーは娯楽でありそれ以上でもそれ以下でもない。だから公共の場所に出してはいけないし、ふさわしくないのだ。メインカルチャーがあってこそサブカルチャーは成立する。ただしサブカルチャーを公共の場所に出しても成立させる方法はたくさんある。一つはテーマを決める事。もしも「日本のポップカルチャー・サブカルチャーを世界に紹介する。」これがテーマであり広く周知されているならばサブカルチャーを公共に出しても存在意義がある。それと演出する舞台監督の腕、これが肝要であろう。どう見せるか?はまさにクリエイターの腕の見せ所なのだ。ビートたけしさんが今回のオリンピック開会式をぼろくそに言っていたがたけしさんは映画監督もやっているのでそのような視点からも今回の開会式演出の稚拙さを批判していたのではないだろうか?僕自身も意味不明という感想しかない。

今回のオリンピックの開会式演出は電通が請け負い制作していると言われているが、ビジネスなのか?公共なのか?その区別もついていないし誰に向けてのものなのかもわからない。全くの出鱈目であり説明も足りていない。不祥事や仕切りの悪さだけが目立つ結果となってしまった。考えてみたらこれは当たり前である。個人と社会について、文化と公共について真剣に考えずマーケティング的な発想だけで物事を進めているのだから。これだけ醜悪なものを見せられることに対してなぜ皆がもっと怒らないのか?僕は不思議で仕方ない。これは税金が投入されている公共性のあるイベントなのだ。学園祭でもないしファンの集いでもない。こんな事がまかり通ってしまうことは文化や公共崩壊の危機であると思う。サブカルチャーはサブカルチャーでやればいい。そのためには公共やメインカルチャーについてもっと真剣に考える必要がある。以下は私の憶測であり蛇足ではあるがもう一つ指摘しておこうと思う。今回出てきたクリエイターは普段からNHKや電通と組んで仕事をしている人が目立つ。こういった仕事の仕方が公共に対しての説明責任やチェック機能を低下させていないだろうか?まして今はコロナ禍の時期である。もう一度自分たちの存在意義を見つめ直してほしいと切に願う。

★コロナ渦でなければここまで言いません。また個人を誹謗中傷するものではありません。業界の構造そのものや公共軽視について批判しています。

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