マインドフルネス関係で好きな本について。

マインドフルネスは

という言葉のルーツは原始仏教にある。

仏教用語(パーリ語すなわち

仏教の経典で使用される言語)

でいうところのサティ

日本語に訳すと「気づき・念」

英語で訳すと「マインドフルネス」に当たる。

マインドフルネスという言葉は

1900年にイギリスのリース・デービッスが

パーリ語のサティを英訳してから

使われるようになった。

もともと仏教の概念としてあった言葉

であり新しい概念ではないのだが

西洋の心理学取り入れられたりして

脚光を浴びたのだ。

最近だとGoogle社などが企業研修で

マインドフルネスを取り入れている

という話も有名だ。

僕も専門家ではないから

語るのも少し恥ずかしいし

間違ったことも言ってしまうかもしれないが

わかる範囲で、自分が調べられる範囲で

書いていこう。

原始仏教は

自己観察や心の在り方について

の話もたくさんあるようで

宗教というよりは

心理学や哲学のような考え方に近い。

それゆえ現代でも

役に立つお話がたくさんある。

*余談だが僕は宗教そのものよりも

宗教の歴史や文化などの話が大好きだ。

だからこそマインドフルネスは

カウンセリングやや医療の現場でも

取り入れられているのだろう。

慢性疼痛にマインドフルネスが有効だという

話は医学論文にも掲載されている。

そして推奨度(信頼性)も高い。

「宗教」というとなんだか

身構えてしまう人も

医学論文などで根拠がある

という話をすると納得してくれる人も多い。

・・・

本日は

マインドフルネス・原始仏教関係という

カテゴリーで僕が好きな本を紹介させてもらう。

ほかにもいい本がたくさんあると思うので

何かオススメがあればぜひ教えてほしい。

まずはこちら。

草薙龍瞬「反応しない練習」

草薙さんの本は好きで

何冊か拝読させていただいた。

さすがにお坊さん、話がわかりやすい。

原始仏教を現代にも役に立つよう

わかりやすく解説してくださっている。

草薙さんはけっこう

ファンキーな経歴の持ち主。

高校中退

東大

官僚

出家・インド

(インドで有名な日本人僧侶・

佐々井さんのお弟子さんになる)

執筆活動

簡単に経歴まとめただけでも

興味が引かれてしまう。

興味持った方は自分でもググってほしい。

この本では

原始仏教のこと、

悩まないコツ、心を整理するコツなど

わかりやすく書いてあるので

本当に読みやすい。

かなり売れた本なので

音声化もされている。

ググるといろんな人が内容まとめや

レビューしている。

が人のレビューを読むより

自分自身で読んだり

聞いたりするのが一番良いだろう。

中村元 「ブッダのことば スッタニパータ」

もう少し詳しく知りたい人向け。

インド思想や仏教史の大御所

中村先生の本。

人として正しく生きるため方法が

対話の中で具体的に語られている。

ネット上には内容要約も上がっていたが

ご自身で一読されるのが良いだろう。

・・・

蛇足であるが最後にもう一冊。

原始仏教・マインドフルネス

とはカテゴリーが違うが

「自己観察」

という意味では同じカテゴリーかもしれない。

僕の好きな本をもう一冊紹介する。

ススナガウェーラペルマ

「気づきの探求 クリシュナムルティとともに考える」

クリシュナムルティ関係の本は

わかりやすさよりも

ちょっと過激で衝撃のほうが

大きくなるかも?

活躍した時代なども違うが

クリシュナムルティが

どんな人か?

興味持った方は自分でも

ググってほしい。

気づきの探求は面白い話が

たくさんあるのだが

あらゆる信念が精神を濁らせる

という話がとくに好きだ。

 ほとんどの人々は、容易に宗教的信念や説明を受け入れる。なぜなら、受け入れることによって、調査する手間が省けるからである。今日、静かに坐って宗教的問題を無執着に、学究的情熱をもって吟味する時間とエネルギー、いわんや気組みをもっている人は、ごくわずかである。哲学的探究はきわめて骨が折れる。懐疑の海で揺れ動いている精神は、信念の錨に繋がれると、突然休らぎを見出す。信念は人に安全・安心感を与えるので、慰めになる。安定を渇望している精神は、信念の不可欠の一部である不合理な要素によってその渇きが癒されることを見出す。人生の根本的問題に直面したとき、われわれは「私はじつは知らない」という謙虚さを欠いている。己の無知を正直に認めるよりは、むしろ精神は、自分が集めてきた信念は一定の知識の満足すべき代用品だと傲慢にも思い込むことによって、自己欺瞞を犯す。信念は、迷った精神にとって鎮痛剤なのだ。が、遅かれ早かれ信者は、たんに彼のもともとの信念を維持するために、補足的信念を考案しなければならないことを見出す。かくして精神は精緻な空想の殿堂、現実の世界からかけ離れた夢の世界を構築しはじめる。人は、信念によって損なわれねじ曲げられた精神が、いかに明確に考えうる力を失うかに気づく。信者は膨大な知識を集めるかもしれないが、しかししばしばそうであるように、もしそのすべてが、すでに彼の精神が傾倒している信念を支持するために用いられるのなら、いったい何の価値があるのだろう? (気づきの探求より)

信じるものは救われる

という考え方ではないのだ。

思わずなるほどな、と

納得してしまった。

とてもパンクな考え方だと思う。